昭和46年10月02日 朝の御理解
御理解 第46節
「痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。」
痛いのが治る、痛いと言う事は難儀なこと、その難儀の中から助けた頂く、楽になる。難儀の中からたすけて頂くのは、非常に実感として有り難いと思う。けれども難儀を感じなくなる、その難儀を感じなくなる程しのおかげを受けていることが、実をいうたら有り難いんだけれども、「いつもまめなが有り難い」と仰る。いつも元気である、いつもまめである、言うならば、安気安穏でおられると言う時に、かえって本当に有り難いんだけれどもそれを本当に有り難いと思わない。
それを当たり前のように、元気である事が当たり前のように思う、信心とは本当におかげを頂きぬいていつもまめであれるようなおかげを受けると言う事、いつも安気安穏といったら言葉が悪いけれども何に不自由する事がない程しの、いうなら心配事もないいわゆる難儀というものがない程しのおかげを受けるところに信心があります。そういう例えば、いつも元気であるいつも安気安穏である、不自由する事はない。人からうらやましがられる程しのおかげを受けていると言う事。
だからそういうおかげが受けられるおかげ、その時にです、いわゆる難儀な時よりももっともっと難儀な中から助けて頂いたあの時よりももつともつと尊い高度な有り難いというものが身についていかなければいかんと言う事になるのです。ところが根本的ないわゆる信心のいわゆる、悲しい時の神頼み的信心から一歩も出ない信心であると、あの時助けて頂いたことを一生忘れませんといいながら、いつの間にか、喉元すぎれば熱さを忘れるになっていくのが、これが人間ですね。
けれども信心がその事によって確立されてまいりますと、それがいよいよありがたい事になる。もう20年も前のことでしょうかね、久留米の教会に隅田博士がお話に見えました。前の金光学園の校長先生をしとられて、ここにも先年お話に見えられましたね、あの隅田先生です、いろいろお話し合って 質疑応答の時間に、丁度文男先生が椛目で修行している時分でした、一緒にお話を聞きに参りました。
その時にまあ私共は病気をいたしましても、本当に御神米と御酒さまだけでおかげを頂いておる。医者のイの字もいわなければ薬のクの字もいわないのが合楽の当時の信心でした、今でもやっぱりおかげを受け抜いてるひとが沢山ありますよね。私達も同じことです、ですからその、そう言う事について質問したんです。「隅田先生、あなたは大変な確信家であり、信念の保持者ですね。
ですから病気をなさった時に医者にかかられますか、薬を飲まれますか」と文男先生が質問しましたら、何か不思議そうに文男さんをじっとみとられた、「金光様の信心をしてたら病気はしませんよ」といわれた。私はそれが忘れられない、今日私が皆さんにいおうとしているのはそこなんです。金光様の信心をしてから病気するですか言う様な顔ですよ、これは本当の意味での金光教の信心が身に付いたらね難儀なことが起こるはずもなからなけりゃ、病気をするはずは無いです。
いよいよ尊いありがたい何一つに不自由しない、丁度そのお話し中に丁度電報がまいりました。隅田先生お説教の前でそれを開かれました、どこどこに何かのお金をとにかくたくさんのお金が月々支払れるそのことが決定したというなんかの電報がきてるんです。身体だけでないお金なんかでも絶対不自由しない金光様のご信心すりゃあ、というお話をされた。「金光様の信心してから貧乏しとりますか」と言う様な顔です。
それは過程においては貧乏もありましょう、過程においては、不健康でもありましょう、だからこそ御神縁をいただいたといえます。ですから私どもが本当に金光様のご信心を身につけて、不健康から健康に自由自在におかげを頂けるようになったらね、これはもう動くものではない、ますますそれは、親の代より子の代、子の代より孫の代と大きく広がっていくことは広がっていくけれども、すぼっていくと言う事はあるはずがない、金光様のご信心しとれば。
本当の金光様のご信心、教祖が教えて下さる処のご信心を頂いておれば。それを「金光様金光様」と金光様のご信心は長年さして頂いているけれども金光様のご信心を本当に身につけてない処にそういう結果になる。そこに例えば隅田先生でいうならば、何の不自由もない、または「金光様の信心すれば貴方達は病気するんですか」と言われる様な、いわば、顔をしておれれる程しのおかげの中にそういうおかげを一人でも多くの者に聞いてもらわずにはおられないと言う様な積極的なあのようなご用が出来られる。
「信心はご用なり」などと言う様な、そういうおかげを頂かせてもろうて、止むに止まれん心がご用になつてるところに、隅田先生の信心はご用なりという値打ちがあるとです。おかげば頂かにゃならんからご用頂くと言う様なそんなケチなものじゃない。本当いうたら不健康な、いわゆる、「痛いのが治ったからありがたいのじゃない、いつもまめながありがたいというところまで信心を仕上げていくと言う事。
ところが私どもの場合はどこにお粗末があるかご無礼があるか分かりもしませんし又事実おきず気を頂いて、頂いておったおかげを、なら身体の上にでもストンと落とすようなこともあります。そこを繰り返していく訳でございますけれども、いわゆる、マメな時に、真実助けて頂いた時より以上の有り難さが身についてないからであります。ですからここんところは素晴らしいことだと、金光様のご信心をさして頂いとりゃ健康が頂き続けられる、全ての点に恵まれ続け。
恵まれたり恵まれなかったなんかは絶対にありえないんだと、例えば隅田先生などは確信しておられる、私も確信いたします。唯もうお願い事がある時だけ、お願いしておかげを頂くなんてこれはもう観念的な今までの日本人がしてきたような信心と同じことですよねこれだったら。苦しい時の神頼み、おがんでおがんで、拝み抜いておかげ頂くこれはもう私共何十年金光様の信心さしていただいて、あの時にあげなおかげ頂いた、あん時あげなおかげいただいたと言うばっかり、何にもなっとらん。
そういうおかげを頂くためならば、金光様じゃなくてもいい訳なんです。金光様のご信心とは本当に薬のくの字を云わんですむおかげを頂き続けれるから、「どげん考えてもありがたいね」と家中で話せる訳なんです。実れば実るほど頭が下がるのが稲穂である、実れば実るほど頭がさがるのが稲穂、それがどうでしょう、おかげを頂けば頂くほど頭が下がらんとなるとどういう事になるんでしょうか。
なるほど人から奥様の旦那様のといわれる程しの身分にたとえばおかげ頂いたら本当に旦那様になったような気分で頭を下げることを忘れる。そういうおかげではいけないと言うのです。 それこそ難儀な時に誰の前にでもペコペコしておるというのでなく、本当に難儀なときに実は実っていないにしましても本当に実意丁寧と言うものを身につけてさしてもろうて 本当に謙虚にならしてもろうてその謙虚さが身についてくる、実意丁寧が身についてくるそれにだんだんおかげという実が入ってくる。
だから自ずと下がってくる。もう本当に頭だけがぴょんと上がる様な事は絶対あってはならないと心の中に頂き切っておかにゃいけんと言う事。ところがだんだんおかげを頂いてまいりますと頭が下がらんようになる、おかげを頂いても頭が下がらん、いわゆるおかげだけであって徳になってないからである。そういう時の「痛いのが治ったのが有り難いのではない、」とおっしゃるけれども、痛い思いをする時に、本気での信心が出来ておらなければならん。
治った時には、いよいよ本当の意味においてのありがたい本当の意味においての『頭が下がっておるというようなおかげでなくてはならんけれども唯おかげだから、おかげを頂くと又頭があがる、頭があがっとるからあたまをポンと叩かれる、叩かれるとまた泣きべそかいて神様というて頭を下げてくる、その繰り返しではいけないんだと。またのご理解に「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ」いう御教えがあります。
私は桜の花の信心というのはおかげ、おかげである、おかげが形に表れた姿と今日は頂いていただきたいと思います。そのおかげを頂くために一生懸命眠たいけれどもきついけれども、それこそ歯を食いしばってでもと、おかげを受けるために信心さして頂いてるときの梅の花の信心、なるほど梅の花の信心をせよと仰るはずだとそういう頂くならば、桜の花とはもう、金光様の信心しごさったらえらい儲けなさったと言われる様なおかげを桜の花とするなら、華やかなことである。
けれども桜の花の咲くよう、知っておるかのようなおかげを頂く前提において、もう大変な修行をしござった、とても人が真似は出来んごたる信心辛抱できよったというのが梅の花の信心、梅の花の信心が桜の花の信心より梅の花の信心をせよと仰ることは、おかげを頂いてない家庭が長いほうがありがたいということなんです。桜の花の信心よりおかげを頂くということおかげを頂く前提の信心の方がありがたい尊い、それにどうですかそれこそ今こそ信心辛抱しなければならん時に信心辛抱が出来ない。
そんなふうで桜の花の咲くようなおかげをいただいた時がパーと咲いてパーと散ってしまう訳です。そしてまた地団駄踏むようなお願いをしなけきゃならんと言う事です。その辺が私は本当に大事なことだと思いますですね、信心辛抱しぬかなければならない時に辛抱しきらん.梅の花の信心をせよと仰る時に梅の花の信心をしきらん、それでいて由それはおかげを頂きましても、そういうおかげだから又頭を高くしたり、おかげをいただくと頭が高くなる、またそういうおかげだから。
華やかなおかげを頂いとっても又散ってしまう結果になる。そういうおかげ例えば桜の花が咲いてるようなおかげを頂き続けれる信心金光様の信心とは。「いつもまめなのがありがたいのぞ」桜の咲いたようなおかげを頂いて、人間がやはり軽薄になる。「おかげ頂いたおかげ頂いた」といよるけれども、そのおかげの芯というものはじつに軽い、だから頭が下がらん、そこん処を「痛いのが治ったのが有り難いのでない、いつもまめながありがたい」といわれるように。
その事はその時よりももっともっと深い意味においての「有り難い」。「信心しよりゃお金の不自由なんかしませんよ、金光様の信心しよってお金不自由しますかね、金光様の信心しよってあなた方病気しなさるですか」といえれるような信心なんです。そういうおかげなんです、そういうおかげが頂けるのが金光様の信心、しかも頂き続けるのが信心。その頃になりますとお役に立ちとうてお役に立ちとうてたまらん心が生まれて来る。それは信心辛抱の時には泣く泣くの信心辛抱であったけれども。
有り難うして、有り難うして有り難い涙での信心が出来るようになる、そっちの方が有り難いと言う事なん。いかに私達がここで信心の稽古をさせて頂いて、本当に信心辛抱し抜かにゃとはそこなんですよ神様まあいうならば、蓮根食うて下さっておかげを頂くようなおかげではね、頂いた時にはね、もうそれは信心辛抱の徳によって受けるおかげじゃないですから、また取れ易い落し易い。おかげを頂けば頂く程有り難いものは素晴らしいありがたいに変わっていく程しのおかげでなけりゃいけん。
まめな時にいよいよ不健康な中から助けて頂いた時のありがたさよりももっともっと「喉元すぎれば熱さを忘れる」といったような一般で言う様なものではなくて、それがいよいよおかげになってゆく、そんなら「神も助かり氏子も立ち行くと言った様な働きにいよいよなってゆくと言う様な信心、それを隅田先生の例をもって申しました。病気もしなさる風じゃない、お金に不自由しなさる風じゃない。
だから安気安穏でちやんと家でそれこそ玉露のお茶などすすって、晩酌でも頂いて、巧みのおんじき食べながら生活しておると言った様な事ではない。それこそ席の暖まる暇もない程しにあちらこちらに自分の頂いておるおかげを話しにして聞いてくれる者がいたら、どんな、それこそ自分で手腹切ってでもお話しにでも行きたいと言う様な信心になっていけれると言う事、だから「いつもまめなが有り難い」となるのです。
金光様のご信心はそういうおかげでなからなければ本当の事ではないと思うです。「痛いのが治ったのが有り難いのじゃない、いつもまめなのが有り難いのぞ」話しを聞けばなるほど教祖さまは「よかこといいなさるなあ」と感ぜられるような御理解ですね、ほんなこつ、病気しとっ時治して貰うのは有り難いばってん、病気せん程しにある時にはもっとありがたい時だと言う事が分る。泥棒に入られたけれどもお金は一つも盗られじゃった。はいったばっかりで逃げたごとある。
「はあ高大なおかげを頂きました」とお礼に来る、時に先生がおっしゃった「家の前は毎晩泥棒が素通りしてる」その時少しも有り難いと思わん」と言う様な意味のことが玉水の先生の教話の中にありますね、そこんとこの有り難さが分るいよいよ信心が育っていくならば、それこそ病気もなくなるだろう、なるほどお金に不自由する事はまずなくなるだろう。しかもそれは親の代から子の代に大きくなって行く様なおかげになっていくだろうと私は確信する。
合楽の場合何とはなしに、合楽全体が体質改善を求められとるような最近気がいたします、いうなら桜の花が咲いたようなおかげを頂いています、これをいよいよ頂続ずけるために、今一度私共は信心辛抱の信心が、いままでと違った意味においての信心辛抱のおかげを力を受けなければならない事を要求されているような気が最近しきりにしてなりません。どうでもそういう処に本気で気付かせて頂いて、いよいよ有り難い信心に進んでいかなければなりませんね。
どうぞ。